聖心女子大学聖心女子専門学校札幌聖心女子学院聖心女子学院不二聖心女子学院聖心インターナショナルスクール聖心女子学院本部

校長室よりの最近の記事

2013年6月 6日 09:37

マザー・バラの願い

 創立者聖マグダレナ・ソフィアのお祝い日は、皆様もご存知の通り、5月25日です。教会で聖人を祝う日は、亡くなられた日、つまり神様のみもとに帰り新しい命に与られた日となっています。マザー・バラは1865年5月25日に神様に召されましたが、その16日前の5月9日、パリの聖心女子学院(ビロン邸)の小学生たちを学校に隣接するご自分の修道院に招かれた、という記録が残っています。子どもたちに神様のお話をし、真っ赤なりんごをプレゼントなさいました。そして最後に、子どもたち一人ひとりに祝福を与えてお別れとなりました。マザー・バラが、生涯をかけてこよなく愛された子どもたちと過ごされたた最後の時間。どんなに慈愛に満ちた表情で子どもたちを眺めておられたことでしょう。そして、そのマザーが与えられた祝福に、限りなく深い思いを感じます。

 祝福とは、旧約聖書に描かれている通り、まず「生まれてきてよかったね。おめでとう。」ということです。すべての命の創造の始めに注がれた、神様の心です。マザーは、あなたが生きているということはどんなにすばらしいことか、その思いを伝えたくて、一人ひとりの上に手を置いて祝福なさったのでしょう。

 もう一つ、祝福は「幸せでありますように。」という祈りです。人生にどんなことが待っているかは誰にもわからず、社会もどんどん変化していく。そんな中で、自分も人もかけがえのない存在として尊び、互いに支えあいながら、生きることの意味や喜びを見出していく幸いを、マザー・バラはどんなに願われたことでしょう。

       マザーバラは 目にうつる かたちには
        まどわされませんでした。
        なぜなら マザーバラには 見えるのでした。
        すべてのひとの なかに かがやく 
        とくべつな ひかりが・・・
        どんな ひとの なかにも
        きえることなく かがやきつづける
        神さまの すがた・・・
        愛にあふれた マザーバラの 目には
        見えるのでした
              「聖マグダレナ・ソフィア・バラ」児島なおみ著

 小林聖心の皆様一人ひとりは、愛にあふれたマザー・バラのまなざしで、今も見守られています。そして、「生まれてきてよかったね」「幸せでありますように」と祝福していただいているということをどうぞ忘れないでください。今度のお祝い日には、是非、マザー・バラのそのあたたかい祝福を感じ取ってほしいと心から願っています。


カテゴリ:

2013年6月 6日 09:31

「創立90周年」を祝う心

いよいよ、創立90周年を記念するお祝いが近づいてきましたが、「記念する」という言葉には、「思い起こす」という意味が込められていますので、今度のお祝い日には全校を挙げて、この学校で語り伝えられ、ずっと大切にされている物語(Story)を思い起こしたいと思います。また、「思い起こす」とは単に過去の話を記憶に甦らせるということではありません。今の小林聖心でその物語に命を与えて生きたものとし、未来につなげるということです。そんな「創立90周年」のお祝いにしていきたいですね。

 大切な物語のまず最初は、イエス・キリストという方についてです。2000年以上も前のこと、イエス様は私たち一人ひとりの存在の根本に神様の愛があるのだということを、生涯をかけて、身をもって示してくださいました。この方がいらっしゃらなければ、何も始まりませんでした。イエス様の心に強く惹かれ、イエス様のように生きたいと願って実行された聖マグダレナ・ソフィア・バラというフランスの一人の女性によって、この学校が始まったからです。この女性がいらしたお蔭で、「イエスの聖心」という名前の学校が212年前に始まりました。そして、現在、世界30カ国に広がる、149の学校というネットワークが出来上がったのです。

 次は、聖マグダレナ・ソフィアの思いを受け継いで日本に渡ってきてくださった、欧米からのシスター達のお話です。この話は105年前に始まります。そのシスター方の中に、小林聖心の初代学院長となられ、たくさんの精神的・物質的遺産を残してくださったマザー・マイヤーがいらっしゃいます。小林聖心の子どもたちをこよなく愛し、二度と祖国に帰ることなく教育に献身し、日本の土となってくださったシスター方は100名を超えます。小林聖心の90年という歴史を、天国で一緒に喜んでいてくださることでしょう。このシスター方の存在を決して忘れてはなりません。さらに、そのシスター方の教育に対する篤い思いに心動かされ、小林聖心のためにご尽力くださった恩人の皆様。そして、この学校で教えてくださった先生方と7000名を超える卒業生。本当に多くの方々の心が今もこの学校に生き続けています。そのことに気づき、未来につなげていくのは、2013年の今を共有している私たちの責任であり使命であると言えますね。

 今年の学校の目標「今 ここに 立つ」が示しているとおり、小林聖心の生徒としてしっかりと今を生き、この学校を愛する多くの方々から受け継いだものを皆様らしく表現しながら、過去と未来をつなげていってください。それこそが本当の90周年の記念だと思います。


カテゴリ:

2012年10月19日 18:08

「しっかりと立つ」


 小林聖心では、中高それぞれで、または合同で、毎日朝礼を行なっています。朝の祈りと先生方のお話という10分弱の時間ですが、その間、「しっかりと立つ」ということはとても大切なことです。今日は皆さんに、その「立つ」ということの意味を考えていただきたいと思い、お話します。

 よく、列を揃えて真っ直ぐにと言われますが、まずは、全体の中で自分はどこに立てばよいのか、自分の立ち位置を自分で見極められるということが大切です。そして、自分の場が定まったら、二本の足でしっかりと立つこと。足が開いていたり、手を組んでいたりというのではなく、背筋も手足も頭もすっと伸びて、「私が立っている」という落ち着いた姿を見たいですね。

 生物的に考えても、二本の足で立てるということは、とてもすばらしい人間の能力です。というよりは、むしろ人間は二本の足で立つことによって、人間になったといった方が正しいですね。直立姿勢を取るようになったことで、手が自由になり、手を用いた作業ができるようになりました。そして、脳が発達し、言語も生まれてきました。ですから、人間であることの意味は、堂々とした立ち姿で表すことができると言っても過言ではありません。

 しかし、人間にとって「立つ」ことの意味はそれだけではありません。例えば、「独り立ち」というような言葉がありますね。赤ちゃんが一人で立てるようになることを意味すると同時に、大人になり、自立していくことも意味します。また、皆さんもよく知っている孔子という中国の思想家は、「われ、三十にして立つ」という言葉を残しています。それはもちろん30歳になって初めて足で立つという意味ではなく、自分の道を決め、気持ちを固めて人生をしっかりと歩んでいこうという決意を表しています。つまり、「立つ」ということには、身体的な姿勢と同時に、人間の内面的な姿勢、生きることに真剣に向き合う姿勢が表れてくるのです。

 スポーツ選手は「コート」や「マウンド」に立ち、役者は「舞台」に立ちます。そこが自分の生きる場で、そこにすべてをかけます。「樹」は植えられた場にしっかりと立ち、空に向かって真っ直ぐに伸びていきます。皆さんが、毎日朝礼で立つ姿がその日の自分をつくり、人生全体を方向付けていきます。皆さんの立つ姿は、まさに生きる姿そのものになっていくのです。どうぞ、今日からの毎日、朝礼で「立つ」皆さんの姿が、そんな真摯な生きる姿の表れとなりますように、心から願っています。


カテゴリ:

2012年9月 4日 14:08

「オリンピックの聖火のように」


 お帰りなさい。よい夏休みを過ごしましたか。毎日、皆さんのことを思い出しながら、修道院のシスター達と心を合わせ、神様が一人ひとりを守ってくださるようにお祈りしていました。今日は、久しぶりに皆さんの元気な顔を見ることができて、本当に嬉しいです。
 夏休み前の終業の日、谷川俊太郎さんの「こころから」という詩を皆さんに贈りました。心は入れ物で、そこに蓄えたものから自由に出すこともできるし、また無意識に出てしまうものもあるのだという内容でしたね。この夏休み中、皆さんはどんなものを心に蓄えましたか。美しい芸術に触れましたか。よい本に出会いましたか。すばらしい人やすばらしい自然に出会い、祈りを通して神様と心を通わせることができましたか。また、世界で起こっていることに目を向け、自分の時間やエネルギーを誰かのために使うこともできましたか。今日からの学校生活で、皆さんが夏休みの間に心に蓄えたいいものを出し合って、互いを高めあうことができればと願っています。 

 ところで、この夏の話題は何といっても、オリンピックでしょうか。私はこの夏、25カ国から70名ほどのシスター達が集まった聖心会の国際会議のため、約3週間メキシコに滞在していました。スケジュールの合間を縫って開会式を見た時には、互いの国が出てくると大変な声援で盛り上がりました。また、アメリカの聖心の姉妹校ストーンリッジの15歳の生徒が水泳で金メダルだったとの報告に、みんな自分の国の生徒のことであるかのように喜びました。
 今回、何よりも心に残ったのは、開会式での聖火です。覚えていますか。204の国と地域を表す一本一本のトーチに火が灯され、それらがやがて一つにまとまって、大きな大きな聖火となりました。世界の人々があの聖火を一緒に見ていたと思うと、本当に感激します。それぞれの国が独自のアイデンティティーを大事にしながらも、つながりあって一つになれるそんな世界の姿は、私たちの夢であり理想です。この夏も、世界各地では色々なことが起りました。シリアは今も大変ですね。エジプトのシスターと話をしましたが、これから自分の国がどのようになっていくのか、本当に心配していました。同じ言葉で話していても互いを理解しあうことは難しいのですから、ましてや世界というレベルになった時には、本当に難しいです。しかし、自分の姿勢は変えることができます。互いを、神様から贈られた存在として「尊ぶ」という生き方こそ、今、最も求められているのではないでしょうか。

 皆さん一人ひとりは、神様から贈られた命を燃やす、あのオリンピックの聖火のようです。今日からまた始まる学校生活の中で、互いの炎、内側から輝く光を尊び、クラスで、学年で、そして、学校全体で大きな一つの聖火を燃やしていきましょう。いつも心の中に愛の炎を燃やしておられた聖マグダレナ・ソフィアの心を受け継ぎ、周りの人の炎とつながって大きな炎をつくっていきましょう。


カテゴリ:

2012年6月 8日 16:53

聖心で大切にしたい「集中力」

 5月は創立者聖マグダレナ・ソフィアの祝日があり、「みこころの子ども」(聖心女子学院で学ぶ子どもたち)に創立者が願っておられたことを心に留めて過ごしました。「物惜しみしない心(generosity)」や「連帯感・使命感をもって社会に貢献できる女性」という未来像が、皆さんの心に広がってきていることと思います。ところで、将来そういう人になるために、学校にいる間に、是非、身につけてほしい根本的な力として、創立者は何を考えておられたと思いますか。それは「集中力」です。今年度、皆さんに特に意識してほしいという願いを込めて、学校全体の目標の中に入れましたので、4月からしばしば思い出していることと思います。

 今、自分がしなければならないことに対して、全力で向き合うこと。「今」「ここ」でしていることに、心も頭も体もすべてを注いで向き合うこと。それが集中するということですね。今の皆さんはどうでしょうか。体はここに立っていますが、気持ちはどこかへ飛んでいっているということはないでしょうか。ここに立ってお話していると、皆さんの気持ちが一つになっているかどうか、本当によく伝わってきます。朝礼は朝礼、授業になったら授業、その時その時、自分のすべきことに精一杯向き合うことの積み重ねが、自分という人間をつくっていくのだと思います。

 「集中」と似ているようで似ていないのが、「没頭」ということではないでしょうか。「没頭」は周りが見えなくなっているけれども、「集中」は周りが見えているのだと説明されることがあります。ただ気の向くままに他のことを忘れて無我夢中になるのではなく、自分がすべきことを判断し、意識して、一生懸命取り組むところに生まれるのが「集中」のようですね。英語で言えば、「concentration」となりますが、むしろ「mindful」「careful」という言葉が適当なように思えます。集中するとは、つまり、十分心配りができ、注意深くなることです。そこから、よく気づいたり、深く考えたりすること、また適切な行動も生まれてきます。

 5月はマリア様の月でした。マリア様といえば「感ずべき御母」のご絵を思い出すことでしょう。あの、目を伏し目がちにしておられるマリア様は、眠っておられるわけではないのです。神様に集中しておられるお姿です。心も頭も体も集中して神様に向かうことで神様との深いかかわりに入り、神様の思いに触れることができます。そして、いつでもすぐに神様の思いに応えて行動することができますという意志を、あの「集中力」から感じ取ることができます。

 皆さんの毎日の学習や活動を通して、こうした深い「集中力」を身につけることができますようにと心から願っています。そうすれば、創立者がお考えになった「魂」「知性」「実行力」の三つが揃った豊かな人間として、周りの人も、そして、自分自身も幸せにすることができるのではないでしょうか。


カテゴリ:

2012年5月29日 08:35

「物惜しみしない心」

 創立者聖マグダレナ・ソフィアの祝日、おめでとうございます。この一人のフランス人女性のお蔭で聖心女子学院が始まり、日本にも学校が創立され、こうして小林聖心に集められて一緒に学んでいるということは、本当に不思議です。そして、世界中の聖心女子学院の子どもたちが、創立者につながって、同じようにお祝いしているということもとっても嬉しいことです。

 ところで、今日のごミサで神父様が朗読されたヨハネによる福音書のみことばは、聖マグダレナ・ソフィアが大好きな箇所でした。「わたしはぶどう木、あなた方はその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」というところです。フランスのジョアニーという町で生まれた聖マグダレナ・ソフィアは、ぶどうの木を見て育ちましたので、イエス様のこのことばは身にしみてわかっていたに違いありません。ですから、イエス様というぶどうの木につながる子どもたちで世界をいっぱいにしたいという熱い思いで、聖心女子学院を始めてくださいました。イエス様とのつながりと同じように大切なのが、枝と枝とのつながりです。ごミサの中でコリンズ神父様が仰っていましたね。一本一本の枝は他の枝とつながりながら、イエス様という木につながっているのです。人間同士のこの横のつながりも大切に考えておられた聖マグダレナ・ソフィアの心からの願いは、今日、読まれた手紙に書かれていたとおりです。
 聖心女子学院で学ぶ「みこころの子ども」には使命がある、ということです。その使命とは、利己主義が蔓延する社会の中で、「物惜しみしない心」をもって生きることです。少しでも周りの世界や社会をよくするために、自分にできることを一生懸命、実際の行いで表すということです。革命後のフランスであれ、21世紀の日本であれ、人の心は変わっていないようですね。自分のことしか考えられなくなり、人が孤立化していく社会の中で、他の人とつながり、自分の能力、時間、エネルギー、手足、全部を用いて人を活かす人になりなさいということでしょう。

 ミサの後に伺った、東日本大震災の復興支援に携わっておられる春名神父様のお話のテーマも「一つの体 多くの部分」でした。体の中のちょっとした小さな部分でも、怪我をしたりすると、どれほど大切な部分であったかに気づかされます。一つの体として、一緒に痛みを覚えるのです。昨年の大震災と津波、原発の事故という辛い出来事で、日本中、また、世界中の人々が一緒に痛みました。今も苦しんでおられる方々が安らぎを得られない限り、本当の意味で私たちが心の平安を取り戻すこともありません。私たちも体の一部分として何ができるのかを考え、一つでも実行に移すこと。直接、行けなくてもできることが色々あるということを、今日のお話から学ぶことができました。

 どうぞ、皆さんが「みこころの子ども」のしるしである「物惜しみしない心」をますます育てることができますように。目を開き、耳を開き、心を開いて、その時、その場で必要なこと、私にできること、私がすべきことを実際に行うという姿勢で、身の回りの小さなことから始めることができますように。この祝日にあたり、聖マグダレナ・ソフィアの取次ぎを願って、お祈りしています。


カテゴリ:

2011年12月16日 17:22

あたたかい心・あたたかい身体(からだ)

 12月11日の日曜日は待降節に入って3番目の日曜日、いわゆる「Laetare Sunday」(喜びの主日)と呼ばれる日で、クリスマス・リースの紫色の蝋燭のうち、たった一本のピンク色の蝋燭に火がともされました。「クリスマスがいよいよ近づいてくる」という喜びだけではなく、イエス様をお迎えする沈黙の祈りを通して、色々なことに気づき、喜びも新たにされる時期ということなのでしょう。皆さんの今年の沈黙のプラクティスはいかがですか。プラクティス5日目の今日からは、そろそろ口を閉じてただ黙るという沈黙から、聴く、そして気づくという沈黙に変わっていくことを願っています。そして、クリスマス・ウィッシングまでの日々、中1は中1らしい静けさ、高3は高3らしい深みのある静けさを、是非味わってください。

 ところで、もう一ヶ月以上前になるでしょうか。世界聖心校長会での講演を踏まえて、世界中の聖心で学ぶ子どもたちの共通した特徴は「Compassion」であるという話しをしました。Compassionとは人の痛みを共にすること、もちろん完全に人の痛みがわかるということはありませんが、相手の気持ちを汲み取って共感できる、思いやりの心、あたたかい心を意味しています。そこで、今日はもう一つ、Compassionはあたたかい心のみならず、あたたかい身体も意味するのだということをお話したいと思います。あたたかい身体といっても、別に体温が高いということではありませんから、間違えないでくださいね。具体的な行動や身体の表現を通してあたたかい心を伝える、それがあたたかい身体です。例えば、困っている人がいたら傍に行き、何かしようとする。重そうな荷物を運んでいる人がいたら、持ちましょうかと言って手を差し出す。ちょっとした会釈や挨拶も、このあたたかい身体から生まれます。「私は思いやりがある。」と言って、ただ黙って立っているだけでは、その思いやりには何の意味もないことになります。
もうすぐイエス様のお誕生をお祝いしますが、クリスマスは、まさに、神様があたたかい身体として来てくださったことのお祝いです。人間への愛100%の神様は、人間と一緒に生きたくて、イエス様というあたたかい身体となって、私たちのところに来てくださいました。苦しんでいる人の傍に行って慰め、寂しそうな人に声をかけて友達になり、病気の人には手を置いて癒しました。イエス様のあたたかい身体からあたたかい心が流れ出て、人々を暖めることができたのです。

 プラクティスの沈黙の間、是非、自分自身を眺めてみてください。私の身体は冷たくなっていないでしょうか。周りで何が起こっても、誰がいても気がつかない。あるいは「私は関係ない」とばかりに、自分からは何も動こうとしない、そんな身体になっていないでしょうか。イエス様のお誕生を迎える準備として、あたたかい心の人・あたたかい身体の人になれますように、お祈りいたしましょう。


カテゴリ:

2011年11月 1日 11:50

聖心(みこころ)の子どものしるし:Compassion

 今日は諸聖人の祝日(All Saints' Day)ですので、私たちにとって最も大切な聖人、聖マグダレナ・ソフィア・バラのことを思い起こしましょう。この一人の女性が210年前に始めてくださった聖心女子学院が世界中に広がり、今では29カ国150余りの学校になっていることは、皆さんもご存知の通りです。

 ところで、世界の聖心女子学院の校長先生が集まる会議が2年ごとに行なわれていますが、今年は台北の聖心で行なわれ、先週の今頃、私はその会議のために台湾に滞在していました。世界15カ国の聖心女子学院から55人のシスター・先生方が集まったこの会議は、「イエスの聖心(みこころ)を学び、その心に与って生きる子どもたちで、この地球を一杯にしたい!」という創立者のヴィジョンが、21世紀の今、まさに実現しているということを感じさせられる、豊かな集まりとなりました。ヨーロッパやアメリカ、オーストラリアの先生方はもちろんのこと、アフリカのエジプトやコンゴ民主共和国のシスター・先生方にお目にかかれたことは嬉しいことでした。長く続いたムバラク政権が崩壊し、新しい国づくりをしていかなければならないエジプトの聖心女子学院で、子どもたちは使命感を感じながら日々の学習に取り組んでいます。内戦の爪あとが癒えないコンゴでは、女性や子どもたちが武装勢力による暴力の犠牲となっています。食料に事欠き、勉強の機会も十分与えられない、そんな国の未来を背負う女の子たちの教育が、聖心女子学院で展開されているのです。こんなことを考えると、世界に広がる聖心女子学院のネットワークの力強さを感じずにはいられませんでした。
 この会議の中で、世界中の聖心女子学院で学ぶ生徒の中に共通して育ってほしいものは何なのか、一緒に確認することができました。それは、聖マグダレナ・ソフィアが今生きておられたら「まさにそれです!」と仰るに違いない「Compassion」です。「Compassion」はイエス様の心そのものです。直訳すれば「人の痛みを共にすること」つまり、共感できる力、人と共に泣き、人と共に喜ぶことでしょう。人間には完全に相手の思いを理解することはできませんが、目には見えない心や物事の背後まで思いを馳せ、人に心を寄せて共に歩むことができます。そして苦しんでいる人のために、自分の手足や身体を動かして、自分にできることを少しでもしようとすることはできます。それこそが「Compassion」です。また、特に現代では、自分の周りの人のことのみならず、地球の裏側の人のことまで思いを馳せることのできる、心の広さと深さが求められていると言えるでしょう。

 聖心女子学院というグローバルなネットワークの一員である皆さんが、世界に広がる姉妹校の子どもたちとのつながりを大切にしながら、「Compassion」あふれ人に育っていくよう心から祈っています。


カテゴリ:

2011年9月15日 09:58


「もの : 者と物」

 今日は、「もの」についてお話したいと思いますが、皆さんは「もの」ということばを聞いて、どんな字を想像しますか。日本語はとても不思議で、人間の「者」も物質の「物」も、「もの」という同じ音で表現します。他の言語では多分ありえない、日本独特の文化の表れだと思います。同じ音ということは、つまり、共通点があるということですね。それは、物にも、人間にも、魂が宿っているということだと思います。

 「人間には神様からいただいた魂があるけれど、物は生物でもないし、人間とは違う」と思うかもしれません。でも、物には作った人の魂が込められているのです。物は、ただ工場でロボットによって作られたわけではありません。日本には「ものづくり」という伝統がありますが、小さな部品の一つにいたるまで作った人の思いや労苦が染み込んでいます。また、物は、それを使う人によって魂が宿るようになります。東日本大震災の後、あの瓦礫の中で、物が叫んでいたように感じませんでしたか。「私を使ってくれていた人、私を見つけて!」と。被災された方々は、家の柱の一本でもいい、文房具の一つでもいい、何でもいいから何か出てきてほしいと探し回られたと思います。物は使う人の魂が込められ、かけがえのないものとなっていくのでしょう。

 小林聖心は何よりも魂の教育を大切にし、出会う相手をかけがえのない存在として思いやることのできる人を育てたいと願っています。それは同時に、人だけでなく、物と丁寧にかかわり、物を大切にする心も育ててほしいということです。人が物をどのように扱っているのか。それを見れば、その人が他の人とどのようにかかわっているのかも見えてくることでしょう。この頃のように、物はただ役に立てばよい、古くなったら使い捨て、次のものと交換すればよいのだという風潮は、人を人とも思わなくなることにつながっていくのではないでしょうか。

 学校の校舎のことも考えてみてください。昨年からこの夏にかけて、高校はもちろんのこと、中学校も色々なところが新しくなりました。私はその工事の様子を日々眺めながら、働いてくださっている方々への感謝の気持ちで一杯になりました。皆さん、ただの仕事として働いてくださったわけではないのです。真夏の暑い時も、冬の寒い時も、騒音や埃の中で、「いいものを造ろう、休み明けには生徒が使えるように頑張ろう」と、心を込めてくださっていました。また、その陰には、設計してくださった方々の思いも忘れることができません。学校の本館は、80年を越える、魂のこもった建物です。また、新しくなった所は、皆さんがこれから心を込めて使い、後輩のために魂を残していくことでしょう。数年前、もう70歳に近い卒業生の方々が学校を訪問なさった時、「ああ、懐かしい。」といって、階段の手すりや廊下の壁を手でなでておられたのが、とても印象深く残っています。皆さんもそんな卒業生になっていくのでしょうか。

 「者」と「物」。どうぞ、身の周りの小さな物を丁寧に扱い大切にする心を身につけることで、人への思いやりの心を育んでいくことができますように。そして、互いをかけがえのない存在として大切にする心が、物との関わり方へとさらに広がっていきますように、心から願っています。


カテゴリ:

2011年7月 8日 18:17

「身についていますか」

 先日、大学3年生のある卒業生と話す機会に恵まれました。彼女曰く、大学に入ってみて、自分にはこの小林聖心で身についたものがある、ということを実感したのだそうです。
 例えば、「授業に先生が入って来られると、無意識のうちに立ってしまう」ことや、重い荷物を持っておられる先生がいらしたら、「お持ちしましょうか」と手が出てしまうというようなことだと語ってくれました。確かに、こうしたことは体が覚えていて、意識しないで自然にできる、文字通り身についたことなのでしょうね。

 学校というところは、あらゆる活動を通して、色々なことを身につける場です。
 例えば、まず「知識や教養」。意外に思えるかもしれませんが、実はこうしたものは頭の働きだけの結果ではなく、体全体が関わって始めて本物になります。また、実際に体を使って何かが出来るという「技術」、これももちろん、様々な教科や活動を通して身につくことです。
 さらに、「習慣」のようなものも身につきますね。例えば、朝礼では並んで沈黙に入り、朝の祈りを唱えるといったような、学校独自の習慣がその一つです。

 ところで、皆さんには、これ以外にも身につけてほしいことがあります。
 それは、周りの状況を見て、その場にふさわしい行動ができる、また他の人への思いやりや心配りを、具体的に体を動かすことで表すことのできる、実際性です。
 例えば、狭い廊下で人とすれ違いそうになった時、どうしますか。そっと避けてくださるのは先生で、自分たちは何人もが並んで堂々と歩いている、などということはないでしょうか。ドアを開けて通り過ぎる時、自分の後に誰か続いていないかしらと、後ろを振り向きますか。ドアの前で先生と一緒になった時、自分の方がドアを押さえて「先にどうぞ」と先生をお通しできていますか。

 この頃、「あら、どうしたのかしら」と思う場面に出くわすようになりました。特に今のシーズン、傘をさして通学する時、色々と思いやりを行動で示す必要が出てきますね。傘をさした者同士がすれ違う時、日本には「傘かしげ」といって、互いに傘をちょっと外側に傾けて相手に雨がかからないようにするという美しい習慣があります。是非、身につけてほしいですね。ぐいぐい我先にと言わんばかりに傘を押し合って通ろうとする姿は、何か悲しくなります。

 どうぞ、皆さんもこの学校を卒業した時、「小林聖心でこういうことが身についた」と、たくさんのことを発見できますように。そのためにも、日常の小さなことに心を込めて、丁寧に生活してほしいと願っています。


カテゴリ:

2011年6月10日 14:10

「豊かな沈黙の世界」

 中間試験が近づき、今年度の学校生活も四分の一が終わろうとしています。自分自身を振り返る節目の時期ですね。昨年度に引き続き、「豊かなことばの世界の中で」という学校目標のもと、皆さん一人ひとり、「ことば」を様々な観点から味わい、深めてきていることと思います。現代では「ことば」といえば、「プレゼンテーション」「ディベート」「スピーチ」など、発信することに重きが置かれがちですが、実はそういった活動の背後には必ず、「読む」「聴く」「書く」「考える」「深める」といった沈黙の作業があるということに気づいていますか。「豊かなことばの世界」には、「豊かな沈黙の世界」が欠かせないのです。

 ところで、「最も聖心らしい学校の雰囲気は何ですか。」と問われるならば、私は真っ先に「沈黙です。」と答えます。210年続いてきた聖心女子学院の教育の聖心らしさはそこにあります。もしこの小林聖心から「沈黙」の雰囲気が消えるとしたら、それはもう聖心の学校でなくなるといっても過言ではありません。

 昨年、読売新聞の「時代の証言者」という欄で、作家の曽野綾子さんの記事が連載されていました。その4回目では、ご自分の受けた教育について書いておられます。幼稚園から大学までずっと聖心女子学院で過ごし、聖心の教育が身にしみておられる曽野さんは、ご自分の受けた教育の中で最も大切なこととして、「沈黙」について語っておられます。「トイレで子どもたちがおしゃべりすると、シスターから『シーッ!』と怒られる。目的のある所で目的以外のことはするな。トイレはおしゃべりする所じゃないと言われた。」「私たちは沈黙を教えられました。廊下を歩く時も沈黙。廊下は歩くところでしゃべるところではない。電車も沈黙。大きな声で騒いだり走ったりするな。」
 なぜ、そんなに沈黙が大切なのでしょうか。曽野さんはこう仰っています。「沈黙に耐えられない人間というのはろくなことがない。」と。つまり、しっかりとした人間になるために、沈黙の時間はとても大切な意味を持つということですね。なぜなら、沈黙の中でこそ「自分を深く考える」ことができるからです。「話すことは、会話の中で相手を見たり、自分の位置を決めたりすること。沈黙は誰と比較するのでもなく、自分はどうなるのか、どうするのかを考える」ことだからです。人のことばかりが気になってうろうろし、つい無駄なおしゃべりで時間を埋めたりしていませんか。沈黙の中で、しっかりと自分の足で立ち、自分はどう考えるのか、自分は何をすべきかを見つめることを通して、自分自身は出来上がっていきます。また同時に、「他人の静寂も侵さない」ために、沈黙は重要です。他人の静寂を大切にすることは、その人を大切にして尊敬を表す、最も美しい態度であると言えます。

 今年度も、皆さんがそれぞれの年齢にふさわしい「沈黙の豊かさ」を味わい、しっかりとした人間に成長していってほしいと、心から願っています。


カテゴリ:

2010年12月18日 09:00

12月13日(火)中高合同朝礼でのお話です。

「声は人の魂を結びつける」

 ベオグラードで30年以上も暮らしておられる詩人の山崎佳代子さんが、11月に東京外国語大学でなさった講演の内容を新聞で拝見し、非常に感銘を受けました。「声は人の魂を結びつける。声を出す時はみんなに届くように出し、声を聴く時は心を込めて聴く。この二つが欠けると社会はほころびる。」というようなお話だったそうです。内戦の続いた旧ユーゴスラビアで国が荒れ果てていくのを目の当たりになさった山崎さんならではのおことばであったと思います。
 皆さんの前で話をする機会の多い私ですが、自分の声は皆さんに届いていたのかしら、皆さんと私は声を通してつながったのかしら、と反省させられる思いがします。皆さんはこの一年どうでしたか。自分の声を先生や友達にしっかりと伝えてきましたか。また、先生や友達の声を心を込めて聴きましたか。きれいな声かどうかは問題ではありません。声にはそれぞれの表情があり、その人自身を表します。その人らしい声を味わいながら、クラスの仲間とことばを交わし、魂のつながりを生み出すことができたのでしょうか。


カテゴリ:

2010年11月15日 11:54

「若者よ、海外に出よ」

 先日ノーベル賞を頂かれた根岸先生が「『若者よ、海外に出よ』と言いたい。日本は居心地がいいし、海外の(研究機関の)方が優秀とは限らない。しかし日本を外から見る機会がこれからますます重要になる。」と仰っていたのがとても印象的でした。このところ、「日本の若者は海外に留学したがらない、日本の若者がとても内向きになっている」ということを聞くにつけ、とても残念な思いがしていましたので、私も「根岸先生に賛成」と声をあげたい思いでした。


カテゴリ:

2010年10月 5日 14:09

「未来の自分」

 いよいよ、後期が始まります。衣替えとなり、青空に皆さんの制服が美しく映えています。今日はどんな気持ちで制服を身につけ、学校への坂道を上がってきましたか。後期の始業の日にあたり、皆さんにこんなふうに過ごしてほしいと願っていることをお話したいと思います。
 私はこの夏、体験学習の引率としてフィリピンへ行ってきました。昨年はインフルエンザの影響でキャンセルとなりましたので、2年ぶりのフィリピンでした。もう今回で10回ほど、しかも毎年同じような場所に行っているわけですが、必ず忘れられない出会いがあります。今回、頭から離れないのは、パヤタスというゴミ山の町に住んでいる4・5歳の男の子です。家族は環境の悪いところに住み、ゴミの中から金目のものを拾って生活していますので、一日に一回でも食事らしいものを食べることができれば幸いという状況です。教会が食事のサービス(Feeding Program)を行い、子どもたちはそこでかろうじて栄養を確保しています。そのプログラムに訪れた時のことです。食事が配られ、長いお祈りを唱えた後、いっせいに子どもたちが食べ始めました。男の子の隣に座って様子を眺めていた私は、その子の「食べる力」に圧倒されそうになりました。人間は生きるために食べる。食べることに込められた人間の生きようとする力は本当にすごいとしか言いようのない日本ではありえない、体験でした。


カテゴリ:

2013年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

ウェブページ