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校長より
2021.06.21
丘の学び舎 その127

3度目の緊急事態宣言が解除となりましたが、まだまだ気を引き締めて過ごさなければなりません。「コロナと共に」という学校生活が2度目の夏を迎え、この頃つくづくと感じることがあります。それは、小林聖心らしいものが学校から消えているという淋しさです。まずは、何よりも「朝礼」です。小学校では、毎週1回の全校での朝礼、中高では、毎朝、中学校朝礼、高校朝礼、そして、週一回の合同朝礼が行われてきました。小林聖心という共同体の一員として集まり、その集団の中に立つことで一日を始めます。そして、声を合わせて祈り、一人の先生の話に全員で耳を傾けて共有します。学年を越えた大きな集団で一か所に集まることができなくなって久しい今、児童生徒と教員が一堂に会するということがもたらしていた不思議な力を感じずにはいられません。
もう一つ淋しく思うのは、「分かち合い」ができなくなったということです。特に、一緒に楽しく食事をする、時には同じものを分け合って頂くというという「分かち合い」です。聖歌「マラナタ」で「主の食卓を囲み~♪」と歌うように、イエス・キリストの準備してくださる「ミサ」という食卓に学校で与れなくなってきているのも、とても残念なことです。さらに、合唱の歌声が、校内から消えているのも、淋しい限りです。声を響かせて一緒に歌うことにより、かけがえのない喜びを頂いてきたのだということを改めて実感しています。
「共に」いることから学ぶことの多い小林聖心らしさの数々が、コロナ禍においてはまさに避けなければならないことばかりというのは、とても皮肉なことです。これまで当たり前のように行ってきたことの意味を、再発見する時なのでしょうか。もちろん、できる限りの工夫をして、大事なことを失くさないよう努めることはできます。しかし、先端技術を駆使したつながりがどれ程可能になろうとも、身体全体を含めた存在である人間として、空間を共にし、顔と顔を合わせて出会うということに代えられるものではありません。子供たちの健やかな成長のため、一日も早く、集まったり、分かち合ったりできるようになることを、祈るばかりです。

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