丘の学び舎 その55(中高生版)
中高生の皆さん
先日、ローマの聖心会本部で働いておられるシスター有田から、オンラインの大合唱が添付されたメールが届きました。50人を超える方々が異なる場所で歌っておられて、画面いっぱいにそれぞれの方のお顔がアレンジされています。歌はフィリピンの聖歌「pananagutanパナナグータン(責任)」です。この歌はフィリピン体験学習のテーマソングともいうべき歌で、フィリピン滞在中、参加者はいつでもどこでも、集まると歌っています。そして、卒業後も、参加者の集いをすると、必ず皆で一緒に歌うことになります。私を喜ばせようと分かち合ってくださったシスター有田のお心遣いに感謝します。
ところで、この聖歌のタイトルの「責任」ですが、日本語で聞くと何か不思議な感じがするかもしれません。しかし、フィリピンのカトリック教会では、とてもポピュラーです。そこに込められているのは、私たちはお互いに対して責任があるということです。苦しんでいる人、助けを求めている人を見て見ぬふりをするのではなく、またそうした人々の置かれている社会の状況に関心を持ち、自分にできる形で助けとなって、少しでもよい状況に変えられるよう力を尽くすことです。
責任は英語では「responsibility」。「果たすべき務め」という日本語の意味合いよりは、「response+ability」、すなわち応答能力ということです。「応答する」というからには、呼びかけがあるということですね。私たちの周りで起こっていることを通して、神様は一人ひとりに呼びかけておられます。見て、聞いて、その相手や状況と対話して、そこから生まれてくる気づき、そこに神様からの呼びかけが込められているのだと思います。その呼びかけが聞こえたら、どのように応えましょうか。自分にできることは何でしょう。今、自分は何をして応えたいでしょうか。
今回の新型コロナウィルスをめぐる事態は、人類全体への神様からの呼びかけだと思います。私たち一人ひとり、責任をもって応えていけますように。
丘の学び舎 その55(小学生版)
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小学生の皆さんへ55 丘の学び舎 その54(中高生版)
中高生の皆さんへ
この週末は、雨に濡れた新緑が、深みを増して輝いているのを楽しみました。皆さんはどんな時間を過ごしましたか。
しとしとと降り続く雨を眺めながら、今日は、私の大好きな本を紹介しようと考えました。「雨の名前」(高橋順子著)という本です。雨の名前422語が、美しい写真や詩、エッセイと共に綴られています。雨の呼び方がこんなにあるとは驚きですね。春雨・梅雨・夕立等、皆さんは幾つぐらい言えますか。この本にも出ていないような表現が、まだまだあるのかもしれません。
人がものに名前を付けるというのは、とても素敵なことです。他のものと区別し、そのものの個別性を大切にしたいからだと思います。いつでもどこでもあてはまる「雨」ではなく、季節や降り方、量等によって、独特の表情を見せてくれる雨を区別したくて、名前を付けます。名前を付けるというのは、その向き合う相手への愛情があるからでしょう。雨や風等に様々な名前を付けてきた日本人は、そうした自然風物にこよなき愛情を感じてきたのだと思います。
旧約聖書の天地創造の話で、こんな一節があります。「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」(創世記2:19)神様は、お創りになったすべての生き物の世話(ケア)をするという役割を人間に与え、同時に、人間がそれをどう呼ぶか任せられました。そして、人間がその生き物をどう呼ぶかでその生き物の名前が決まったのです。ここに、人間と他の命との本来的なかかわりの姿が描かれているのではないでしょうか。一つひとつの命のかけがえのなさを見分け、名前を付けてその命らしさを大切にし、愛情をこめて関わる、そうした、世話の仕方です。
近頃、日本の雨の降り方が変わってきています。ということは、使えなくなってきている雨の名前があるのかもしれません。人間の自然への配慮、ケアの仕方が間違った結果であるとしたら、とても悲しいことだと思いませんか。
丘の学び舎 その54(小学生版)
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小学生の皆さんへ54 丘の学び舎 その53(中高生版)
中高生の皆さんへ
今日は、5月の爽やかな風と木漏れ日をお届けしたいと思います。この写真は、どこで撮ったものかわかりますか。お茶室の入り口付近です。風を受けて優しく揺れる木漏れ日を眺めているだけで、とても落ち着く空間です。
光には季節がありますね。「春の光」というように、特に春は光が美しいです。太陽の高度が徐々に高くなり、日照時間も日に日に長くなるからでしょう。明るく柔らかい光、自然を美しく輝かせてくれる光です。
風にも季節があります。「風薫る五月」と時候の挨拶で用いられるように、青葉若葉の中を吹きわたり、爽やかで新緑の香りを感じさせられる初夏らしい風です。
小林の丘は、今、そんな光と風に満ちています。
校庭を歩きながら光と風を感じていると、「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8:12)と仰ったイエス様を思い出します。光というと、まばゆいばかりに差し込む強烈な光を想像しがちですが、イエス様という光は、春の光に近いのではないでしょうか。温かく活き活きとした「命の光」です。
また、イエス様は風です。復活なさった後、イエス様は弟子たちの真ん中に立ち、彼らに息を吹きかけて(風を送り)、「聖霊を受けなさい」と仰いました。(ヨハネによる福音書20:22)聖霊は神様の「愛の息吹(風)」です。一人ひとりの生命の始まりに、生きるようにと鼻に吹き入れてくださった「命の息」です。この世での使命を終えて天の御国に上げられたイエス様は、今は姿が見えませんが、神様とともに愛の息吹をずっと送り続けてくださっているのです。
小林の丘に満ちる光と風が皆さんのもとに届きますように。そして私たちも、柔らかく、爽やかに、そして、活き活きと、今日も過ごせますように。
丘の学び舎 その53(小学生版)
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小学生の皆さんへ53 丘の学び舎 その52(中高生版)
中高生の皆さんへ
青空に新録が眩しい日々です。
先日、小学校の先生が、「5年生が国語の課題でこんな詩を読んでいますよ。」といって、谷川俊太郎さんの「かんがえるのって おもしろい」という詩を見せてくださいました。とても素敵な詩に出会えて嬉しくなりましたので、皆さんにも、是非、分かち合いたいと思います。
かんがえるのって おもしろい
どこかとおくへ いくみたい
しらないけしきが みえてきて
そらのあおさが ふかくなる
このおかのうえ このきょうしつは
みらいにむかって とんでいる
なかよくするって ふしぎだね
けんかするのも いいみたい
しらないきもちが かくれてて
まえよりもっと すきになる
このおかのうえ このがっこうは
みんなのちからで そだってく
皆さんそれぞれでこの詩を味わってくださるのが何よりですが、私が一番気に入ったのは、「このおかのうえ このがっこうは」です。まさに小林聖心! ここに集う児童・生徒みんなの力で学校が成長し、未来に向かって飛んでいく。なんて学校は楽しいのでしょう。考えることのおもしろさを学んだり、友達を前よりもっと好きになったり・・・。
今日は、青空のもと、皆さんの思いがこの丘に集まりますように。樹々も、花々も、鳥たちも、そして、何よりも、イエスのみこころが、皆さんを喜んで迎えてくれます。
丘の学び舎 その52(小学生版)
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小学生の皆さんへ52 丘の学び舎 その51(中高生版)
中高生の皆さんへ
朝、正門から学校へ向かう時、「お早うございます!」と挨拶しながら、元気よく坂道を上がってくる小学生の姿が見えるようです。中学生は少しはにかみながら、そして、高校生は「さあ、一日が始まる。」という顔つきで上がってくる様子が目に浮かびます。今は誰一人上がってくる人のいない静まり返った朝の坂道を眺めながら、私は皆さんからたくさんのエネルギーをもらっていたのだ、ということに気づかされます。
もうずいぶん前になりますが、須磨久善さんという心臓外科のお医者様が、「いのち」というテーマで書いておられた記事を思い出します。「命はみんなつながっていると思いますよ。そんなに私だけのものではないんですよ。だって、僕は患者さんの命を良くするでしょ。すると患者さんの命が僕を元気にしてくれる。・・・21世紀は、人のために何かをして、人が喜んだことがうれしいという時代になると思う。」
生命科学者の柳澤桂子さんは、「命はそれを持っている人のものだなんて、思い上がりだと思うんですね。36億年の歴史を持つ生き物が、その歴史をたどって、今、わたしのところにたどりついてる。・・・宇宙全体を一つの大きな布みたいに、私は感じてるんですけれど、(私は)その中の一本の糸。」と仰っています。
私たちの命を生かしているのは、この縦と横の人とのつながり。36億年という時の流れにおけるつながりと、今を共有する人々との出会い。そんな命のつながりを体験させてくれるのが学校という場なのだということを、今回改めて痛感しています。
今は友達や先生に直接会えなくても、皆さんには、小林聖心という学校があるのだということを、どうぞ忘れないでください。毎日当然のように会っていた時には、考えもしなかったかもしれませんが、お互いからエネルギーをもらって頑張ることができていたのだということに、今は、気づいているのではないでしょうか。